日本周辺の国々から聞こえてくる雑音、はたまた日本国内から聞こえてくる異音、そんなものについてです。
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
先人を偲ぶ  -佐久間艇長の遺書-

日本帝国海軍潜水艇開発草創期の、軍オタの間では有名な話をご紹介します。

明治43(1910)年4月15日
国産第1号の潜水艇を使用した訓練中に事故が発生し、翌16日に潜水艇は回収されましたが、艇長はじめ全乗組員はすでに亡くなっていました。
そのお話が「国際派日本人養成講座」に掲載されましたので、引用させていただきます。


引用ここから-------------------


No.820 国史百景(6) 佐久間艇長の遺書

 乗組員全員が最期まで持ち場を離れずに職務を果たそうとしたこの事件は、欧米でも大きく報道された。

■転送歓迎■ H25.10.20 ■ 43,653 Copies ■ 3,754,564 Views■


■1.持ち場を離れなかった第6潜水艇の乗組員たち

 沈没した第6潜水艇が発見されたのは明治43(1910)年4月16日午後3時38分、広島湾の沖合約2千メートル、水深約15メートルの海底だった。艇首を上げ、艇尾は泥の中だった。前日朝に出発してから、一日半が経っていた。

 引き揚げ作業は困難を極めた。2機の起重機で吊り下げたまま浅瀬に運び、翌17日明け方から、艇内の海水と漏洩ガソリンをポンプで排出し、換気の後、ようやく艇内に入ることができた。

 乗員はそれぞれの持ち場で倒れていた。佐久間艇長は司令塔の真下で、仰向けになっていた。艇首の魚雷発射管左右には、前後の扉を閉じて海水の浸入を止めようとしたのか、欲山一等兵曹と、遠藤一等水兵が倒れていた。

 原山機関中尉は、海水と電池の電液の混合による有毒ガスの発生を懸念したのだろう、二次電池の前で事切れていた。吉原一等水兵、河野三等機関水兵、堤二等兵曹、山本二等機関兵曹は手動ポンプの付近に集まって倒れていて、交代でのポンプ排水中に絶命したのだった。

 その他の乗員を含め14名全員がそれぞれの持ち場で、息絶えるまでなんとか潜水艇を浮上させようと努めていたのである


>>続きを読む
スポンサーサイト

テーマ:みんなに知ってもらいたい - ジャンル:日記

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。