日本周辺の国々から聞こえてくる雑音、はたまた日本国内から聞こえてくる異音、そんなものについてです。
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日帝による「米」の収奪とは? (5)
朝鮮人や反日日本人が日帝統治の苛烈さの証拠として出してくる文献をご紹介します。


「四月乃至五月、貧農は米も麦も勿論売り尽くし、蓄への粟も勿論食い尽くし、畑作が収穫期に入るまでは、草の根を噛み、木の皮を囓って飢えを凌ぐ。
朝鮮農家の窮民の固有の此の悲惨は恐慌期に入りて倍加され、三倍化された。殊に六年(1931年)の凶作恐慌の後には、もう二月三月から『春窮』が始まり、農民は鋭い飢餓に虐まれ、餓死の恐怖に駆られている。困難は、殊に凶作であった威鏡北道、慶尚南北道等に於て深刻だ。威鏡北道の如き、実に63%の減収なのである。死か、闘争か、貧農は恐慌の深化と共に起上る。六年度の小作争議は、その規模といひ、その性質といひ、当局を脅威するに十分だった」
「慶北栄州に郡浮石、丹山の両面は数年続けて凶作にあり、面民は殆ど生活困窮のドン底に陥り殊に端境期が近付くに従って彼等細農の生活状態は一段悲惨の度を加へ、食ふに糧なく一日一食の粥にもありつけず、草根木皮を漁って歩くといふ餓死線を彷徨う七十戸、三百三十二人に達している」(東洋経済新聞社「日本経済年報第七号」)

「村落に入ると丁度正午ごろである、道ばたのとある一軒に立ち寄って見ると、家族五人が力なげに寝そべったまま、ムシャムシャと頬張っている。『何か』ときいてみると、稗糠に少量の大豆と、つぶし胡麻を混ぜたものだという。家人は何れも目の周りが紫色にふくれ上がり、全身に水腫が浮いている。話す言葉も全く力がなくて、丸で蚊がないているでもいるような弱さだ。亭主らしい四十がらみぼ男が、物憂げにいずまいを直してポツリポツリと語るところによるとこうだ――――草根木皮のあるうちはこんなに衰えはしなかった。それもいつか食いつくしたので、詮方なく今は、稗糠に大豆と胡麻を混ぜた粥や栗糠の粥、米糠などを常食にしているが、それでもまだ上等で、時には大根のひげ根の部分や、葛根のたたき粕を細かく砕いたもの、玉蜀委の芯の部分を包丁でそいだ粉などを、一所に煮て食って飢えを凌いでいるというのだ。そのうちに子供が腹痛を訴えて、大声に泣き出した。すると男はチェーッと舌打ちをしながら、危なっかしい足どりで泣く子を抱えたまま戸外に出て行って佇んだ。怪訝に思って彼の仕草を見ていると、尺あまりの棒の先で、子供の尻を突いているのではないか、やがて子供はその男につれられて戻って来た。
男はまた話しをつづけ――――粟糠を食うと大人はそうでもないが、子供は通じが悪くなり、腹を痛めていつもあの通りに泣くし、米糠も子供は胃腸を痛めて困ると訴えるのであった」(「大阪毎日新聞」1933年6月17日付)

「わずかばかりの畑に植えた麦でさえ、成熟するまで待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取って精白し、さらにこれを粉にして粥を作ってすすっている有様だ。それでもまだ麦が出来るようになれば多少とも潤うけれども、4・5月のいわゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎ、アカシアの花を取って、ヤッと生命をつないでいる。だから4・5月ごろは、だれもかれもが弾力なく膨れ上がって、栄養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでいたものである。ある農業指導員から『農民の最も多忙な田植のいまでさえ、粟飯でも三度戴いているものはほんの僅かでし
ょう』と聞かされて驚いた。各部落をぐるぐる廻って歩いている郡農家の枝手さんの話によると、『郡内のどの部落も、一年中粟さえおがめぬ者が、約一割は確実にありましょう、地主から出来秋には一倍半にして返すと言う、話にならない高利で籾を借り、市日に粟にでも代えて、粥でもすすり乍ら、かすかす春さきを過ごしている者は、三割以上もあります。それでもこんな不況になっては、地主も貸したところで、秋になって返済するかどうか疑問だから、一斗の籾だってなかなか貸してくれなくなり、どん底の農民達は増加する一方です。地主がこんな心配するのもまた無理からぬ点があるんです。昨年の秋なんか、出来秋になって、籾を安値でこっそり売って、一夜のうちにどこにも知らさず、一家をまとめて逃げてしまったのがぼつぼつありました。この秋なんかもっとふえるでしょう。こんな全く形容もできないような、みじめなどん底生活をしているのですから、金と云うものは鐚(ビタ)一文)だって手にしたことのない農家だって、決して少なくありませんよ。粗末な壁が到るところ落ちて、サバリが四つ五つころがっているほか、何にもないと云う農家はざらにあります』との話に、記者は聞きしにまさるその貧窮状態に戦慄させられた」(同上1933年6月21日付)
(以上、朴慶植/著「日本帝国主義の朝鮮支配・上巻」より)
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 ※ よく反日側の根拠にされるこの方についても、また別の機会に
  述べさせてもらいたいと考えています。

これは、以前私が論戦していたブログにあったものです。これだけ読んでしまうと「うわ、こりゃひどい」となりますが、この原因を作ったのは誰なのかをよく考えてみてください。前から書いているように、これらの現象を引き起こした直接の原因は『自分の利益のみを追求し、同胞の窮状を顧みない朝鮮人地主たちの苛烈誅求にある』のです。それを提示せずに、これら朝鮮農民たちの困窮の原因は、朝鮮総督府や日本にある、というようなことをそこのブログ主はぬけぬけと言っているわけです。

「朝鮮人がそんなことをするわけがない!!」とおっしゃる方のために、当時の朝鮮人地主たちの横暴な様をご紹介します。

新聞記事から引用
京城日報 1928.7.3(昭和3) 有賀光豊談:朝鮮殖産銀行頭取

朝鮮における地主対小作人関係を見るにこれは内地と余程おもむきをことにしているようだ。それは従来の慣例にもよるであろうが、舎音即ち土地管理人に一切を委任して地主はただその収穫の多きを望んでいる昔風の殿様生活をしている結果、小作人の耕作権を徹底的に左右しうる権能を有し、その間種々悪辣なる行為に出でていることは、一たび地方に行けば耳も□する許りに聞かされるのである。その実例の一つとして、地主の当然負担すべき公課を小作人から徴収し、或は地主の負担すべき運搬費を小作人に課し、甚だしきは封建時代の悪風たる無償の労力提供強制が、しかも一年の農繁期に三回も行われているということである。一ヶ年の収入僅に百円乃至二百円内外の小作人に対するこの強制は、実に時代を無視した暴圧行為といわざるを得ない。

わが輩の眼から見れば、朝鮮の地主はあまり暴虐である、小作人に対する同情よりも寧ろ義憤を発せざるを得ない。しかも地主舎音は、小作人にしてこの命令を肯かない場合は遠慮なく田畑を取上げてしまう。前年肥料を入れておいた水田を何等の顧慮もなく取上げてしまう。だから小作人の耕作人の耕作期間は僅かに二年乃至三年、□々として同一地主の小作人は変ってゆく。そして取上げられた小作人は、明日から生活のアテがないから更に暴虐なる地主にも叩頭して耕作せざるを得なくなる、かくして小作人は常に虐げられてゆく、これは実に由々しき社会問題であるのみならず、産業開発を阻止する大問題であらねばならぬ。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00487333&TYPE=HTML_FILE&POS=1&TOP_METAID=00487333
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テーマ:韓国について - ジャンル:政治・経済

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